GLASS AND ART No.21「造形の出口ー覚え書10」より
「工芸的なあまりに工芸的な自己変革」
鍛金作家 橋本真之

立てカンバンの後の椎の木に、無神経に巻きつけられた針金が、私には不快だつた。七〇年安保改定の日、上野の芸大構内では拡声器ががなり立てて、デモヘの参加を呼びかけていた。季節風に乗って大陸から飛来する黄砂が空を覆い、あたりが気味悪いほど黄色く暗くなってきた午後、学生食堂での遅い昼食のあと一人で休息していると、数年前、街頭での反戦ポスター展を一緒に企画した学友の一人が、浮き足立ってやつてきて、「橋本はどうするんだ?」と聞いた。「仕事を続けるさ。」と答えた。私はその日も朝から鍛金工房で『林檎』を作っていた。
私は翌年大学院を中退した。一人で制作がしたかつたのである。在学中から勤め始めていた、寄宿制のミッションスクールの美術教師の仕事は続けていた。週に二日、泊まりがけで静岡県に出かけた。富士の裾野のゆるやかな丘の上に修道院があつて、尖塔を持った鐘楼付の礼拝堂と共に、校舎が建っていた。
庭には噴水が噴き上がつていた。あどけない女子生徒ばかりを前に、未熟な美術教師は背のびして、自らの持てる最良のものを差し出す他はないという授業をした。
精一杯の勤めの帰り途、その日、陽はまだ高かつた。私は東海道緑を途中下車して海辺に出た。ひと気のない岩掲を、めまいするように足を取られながら歩き続けている内に、突然それらの岩のひとつひとつが『林檎』であることに気付いた。ありあわせの紙きれにボールペンでスケッチを始めたが、見回すと、あたりの有機的存在の全てが『林檎』に見え始めるのだつた。
それまで四、五年の間、私は殆ど林檎ばかりを描き、作つていた。いくつもの林檎が、私の部屋の中で腐って虫をはい回らせ、腐臭の中で長い時間をかけて、シワを寄せながら収縮していつた。そのフォルムの変容は、膜状の組織の運動の姿として、私の目の前で繰り返された。林檎はぐらりと動いた。繰り返されたそれらの日々は、私の視覚に「林檎質」とでも言うべきフォルムの臭いを読み取ることを習慣化させたのに違いない。私は膜状の林檎質に包まれ、窒息するような視覚に至って初めて、「フォルムは何ものでもない」と認識した。すなわち、私は『林檎』を突き抜けたのである。
打物師たちによつて古くから伝えられて来た鍍金技術の習得を、私が志したのは大学三年の時だが、鉄塊をたたくよりも、金属板をたたき続けたのも、この経験に至る方位だつた。鍛金技術は私の考えの筋道を形成する上で、それをささえる繊弱な神経と肉体を鍛える鉄床の役割を果たしもした。鍛金は私の思考をうながし、その手応えを確実に実在の内に印す場となつていつたのである。じりじりと手わざによつて進める展開は、金属の重い抵抗が思考の空回りをゆるさない。そのことで、逸脱しがちな感情を統御し続け得たのは、私にとつて幸いだったかも知れない。工芸技術が将来になお意味を持ち続けるとしたら、この徹底した肉体の思考をうながさずにおかない点にあるに違いない。
七〇年代の初めに個展を開いた時、「鍛金」という言葉を聞いても、何のことだか解らない人が殆どだつた。「鍛造」という言葉の方がまだしも流通していた。観客はそれが工芸技術のひとつであることを知ると、プイと横を向いて帰っていくか、古代の遺構でも見るような面持ちの反応で、私に応対するのだつた。初めての個展の苦い思い出である。時代は、手の跡自体がけがらわしいといつたような、コンセプチユアルアートとミニマルアートの席捲する時代だったから、私の発表は「新人の時代錯誤」といった受け取られ方をしていたことだろう。
六〇年代の末から七〇年代にかけて、苛烈な政治思想の吹き荒れる中で、造形芸術は内からも外からも根拠そのものが問われて、殆ど窒息状態だつた。あの時代に最も平穏無事な人々が工芸家たちだつたろう。そうした時代に造形的出発をしなければならなかつた私にとって、分野の区分けなどは無意味に思えた。なぜなら造形の根拠そのものが問われている中で、いかなる造形思考が成り立ち得るのか、あるいは成り立ち得ないのかを、自らの場処から出発しなければならなかつた訳だから、いまさら分野に拘泥している場合ではなかったのである。当時、工芸も彫刻も狭い囲いを作ってしまって、私の居る場処ではないといつた趣だった。いずれにしても、私にとって全ての造形論はすでに破産したも同然だった。七〇年代の断絶は、そうした意味において、六〇年代の欧米からやってきた流行の混乱とは隔絶していたのである。
八〇年代に入っても、美術界における鍛金の位置は相変わらずだった。けれども、ようやく積極的な造形意志に光が当たり始めたのは世界的動向だった。しかし、復活したのは再び彫刻であり絵画であつた。「何たる欺瞞か!!」と怒りを覚えたものだが、時代はあっけなくそれらを正当化してしまつた。商業主義の御都合である。当時の人々の憤りは、次第にだらしなく風化させられていく。絵画・彫刻が復活するためには、全く別種の絵画・彫刻が、筋道をとって始まらねばならなかったはずである。七〇年代の窒息状態から自己をつむぎ出した人々の成果が、いかなるものであるか? 分野を問わず、それらが検証されねばならない。何とも痩せた成果ではある。
しかし、その痩せた成果の積み重なりと繋がりが、人間の造形運動を肥やしていくのだと納得しなければ、我々は人類史と殆ど同じ長さを持つ造形史の末尾に連なる勇気を失ってしまうに違いない。
ところで、八〇年代以前の日本の美術批評において、「工芸的」と評することは、否定的言辞として受け取られていた。当時のそのような批評の対象が、いかなる質の作品であるかは、およそ見当はつくのだが、それが近頃では通用しなくなったことは明らかである。
つい筆がすべって、いまだに安易な表現ですませようとした批評を見かけると、私などは「批評の怠慢」と口をついて出てしまう。八〇年代の工芸技術による造形活動の台頭がなければ、今でも相変わらず「工芸的」という安易な批評言語がまかり通っていたことだろう。おそらく、渋谷西武工芸画廊の八〇年代後半の目覚ましい企画を初めとする、工芸系の画廊の活動と、『かたち』という工芸雑誌の活動(注1)がなかったなら、これ程のエネルギーとはなり得なかったに違いない。当時、西武工芸画廊の企画者だつた奥野憲一氏の命画力が、この日本の工芸技術による造形活動の若い世代の台頭を、少なくとも十年は加速したことは確かである。この十年の加速がなかったなら、この消沈しきった不景気がやってきた中で、今頃どうなったいたか? うそ寒い思いがする。おそらく、欧米の権威筋の、季節の変わり目の腰の引け具合に影響されて、またぞろタコ壷に入り込んでしまうことになっていたに違いない。昨年、私も参加した金子賢治氏企画の『合理的な迷宮』展(注2)の副題となつている『素材の理路と工芸的渚形』の、正面切った素直な受け取られ方が、有難くも夢のようである。すでに時代はひとつの展開を示したのである。しかし、工芸的造形の成果もまた忸怩たるものだ。遅々たる歩みにしびれを切らして、観賞者たちが関心を失つてしまうのではないかと、不安がもたげてくるのだが、この仕事は地層を積むのを待つように、時をかけねばならないのである。
これは造形の必然の道筋なのである。これらの素材と方法をめぐる徹底した造形思考は、世界に先がけて工芸諭・造形論の根本的見直しをせまることになるだろう。西欧の造形諭が近代以後を席捲しているが、この辺境に育った造形の理路が現代の造形の筋道を根本的に動かすとすれば、「素材」と「自我」とを結びつける「方法」が、『生成の運動諭』として成立し、その固有の作品世界の構造を展開させ得る時である。西欧の美術の筋道とは逆方向からのアプローチが、今日、新たに「工芸的造形」の語られる意義なのである。
七〇年代が問うたことは、社会の変革に向ける目と対庶的に、自己変革への問いであったはずである。その実践なしに造形の動向などとはたわいもない話である。九〇年代も終わりに近付いている現在、次の世紀に向けて問われるべきは正にこのことである。しかし、それはゆるやかに、いつの間にか変容しているのでなくてはなるまい。それは個々の造形者の自己変革であつて、正にそのことが未来社会に向けて発動する一石なのである。
重い雪が降り積もつた。樹木の枝はたわみ、耐え得なかつた枝は折れて地上に転がつた。 それらの失つた枝を忘れず、しかもその喪失に思い悩むことなく、再び長い時をかけてバランスを取りながら枝を延ばす樹木のように、おそらく、工芸的造形世界は彼らに近いのである。自己変革とは自我の問題をはずす訳にはいかないのだが、拡声器でがなり立てるような、数を恃む種類の問題ではない。けれども、この倫理的な自我の運動は何に向けての変革であったかを、いずれ確実に標されねばならないのである。さもなければ、簡便になされるはずもない自己変革の苦汁で、自責の念に腐りながら、再び空騒ぎとして過ぎ去って行くだけである。
(注1)一九八七年に役刊第一号を創刊、一九九四年第二十五号をもつて休刊。一九九〇年の第十四号と第十五号では、橋本真之特集を二号連続している。笹山央、故・十川忍、宮森はるなの三人が編集していた。
(注2)一九九七年十一月マスダスタジオ「合理的な迷宮」展。カタログテキスト参照。(執筆者・金子賢治)
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