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土岐謙次・漆展  98年7月10日−24日 コンテンポラリーアートNIKI
オープニングレクチャーより   伝統工芸について

 「伝統」にはさまざまな側面があり、物の伝統や精神の伝統、技術の伝統や文化の伝統等々,一言でくくってしまうにはあまりに抽象的である。抽象的であるからこそ現実的に扱う場合に人工的に体系化された「伝統工芸」や「伝統産業」と いった枠組みが必要となってくるのかも知れない。しかしこの体系化の作業の過程でその伝統の本来の姿やモノそのものがもともと具えている資質といったものが忘れ去られる傾向があることは否めない。例えば伝統工芸展に出品されているような棗や茶碗、匙などの茶道の道具は確かにそ のものは最高の技術で丹精込めてつくられていて、モノとしての存在感や完成度は評価されて余りあるが、およそ本来の目的、つまり茶道の現場でそれらの出品作が使われるということはまずありえない。現実的な機能から切り離された視覚的側面のみが排他的、 強制的に披瀝されるにとどまる。そもそも工芸の技術が発達してきたのは、それぞれの道具が丹精込めて作られることではじめて発する存在感、一種の緊張感が寄りあつまって茶道という文化がより洗練されたものに高められるためであり、その目に見えない空気をつくり出すことが本来の工芸の姿ではなかろうか。またそうして作られたものを実際に使って感じるその体験こそが本来の目的のはずである。視覚的側面は工芸に於いて非常に重要かつ中心的な事象であるが、それを通して何を見つめるのかという精神活動の堆積こそが「伝統」の肥沃な土壌となるのではないだろうか。技術の一子相伝が伝統の本質ではないのである。

そもそも工芸とは
 日本の伝統的な美術概念=各種芸能としての美術、例えば茶道、庭があって茶室があって 茶わんがあって棗があって‥様々なToolがあって、人間がある決まった「型」に従って参 加することではじめてその芸術=芸能の作品として成立する。いわゆる一期一会の精神にもとずいたその現場性こそがひっくるめての作品、芸術とされる。工芸と言われるのはそ の芸術をよりいっそう研ぎ澄まされたものにする為に培われた精神であり、柱となる何か,例えば茶道という文化を周りからしっかり支えるものが工芸であり、その柱抜きには語り得ないし、支えなしにも柱は語れない、そんな存在ではなかろうか。  

独立性、内部性
 これらの本来脇を固めることを本分とする「物」もひとつの独立した「モノ」としてクロー ズアップされ技術的に高度に洗練されることで、本来の役割を評価されることなしに独立した価値観を付与されるようになってきた。つまり工芸そのものがひとつの芸術となった。(完璧な蒔絵の施された棗はそれだけで十分美しい)日本のいわゆる美術工芸の世界はそれぞれの素材ごとにこの延長線上に発展してきた。その過程でその本来の役割さえ重要視されなくなった時点で完全に独立したと言える。これらは作品そのものに向かう意識や作品自身のあり方等いわば作品の内部性に重きをおいて発展してきたと考えられる。 しかし、 高度に洗練された作品には必ずといっていいほどそれが発散するオーラとも言うべきそれを包 む独特の空気が存在する。周囲の空間にある種の緊張感を与えるような作品に とってその空気は作品の一部とも考えられる。そこにはいわば作品の外部性が存在する。個々の作品の外部性の集大成としてはじめてそこに意味のある”場”が立ち現れる。それが本来の日本の芸能の姿である。私はこの精神を大切にしたい。要するに廻りの空気に囲まれる作品ではなく、 作品に囲まれる空気を表現したい。その空気を立ち上がらせるために素材を限定して吟味 して作り込むということが今の私にとっての工芸という活動であると考える。そしてそうした思考の出発点となるのが「素材を限定する」という行為であり、素材を通 して芸術を考えることが新たな「工芸」の地平を見い出すことにつながると考える。もちろん我々は 絵画や彫刻に多大な影響を受けてはいるが、絵画や彫刻と同じく工芸が創造の場であるためには敢えて工芸という立場に立脚する必要がある。真の工芸の可能性とは、絵画や彫刻に対する興味本位 の借り物的思考にではなく、確固とした工芸に対する自己認識の上にこそ存在するからである。それはちょうどフランスの人々が自国語を非常に大切にするというこ とで自己認識を深め、確かな土壌をもって文化的に世界に貢献していることに重ね合わされると思う。    

新しい工芸をどう捉えるか?  
 我々はもはや二元論的な世界観では物事を理解しきれない世界に暮らしている。資本主義/社会主義の問題、人種、ジェンダーなど、ある事象であるか、ないかでは物事の本質を正確に捉えることはできなくなっている。美術の世界においても同様で、例えば具象であるか抽象であるか、平面 であるか立体であるか、というようなことに表現の基準を見い出 そうとしても複雑にそれぞれの領域が重なりあって成り立っている今の美術を的確に捉えることはできない。同様のことがいわゆる「工芸」の世界にもあてはまる。これは今の「工芸」がその表現において他のジャンルの表現、例えばインスタレーションやイヴェン トなどと密接に関連しあっているからでありその表現を「素材を扱う技術」であるとかその「完成度」、「用の美」といった従来の工芸の単眼的な捉え方では正確に捉えきれない状況にある。いわば 独立した「工芸」という表現は存在しにくくなっている。  にもかかわらず、こういう美術/工芸の世界において、なにか素材を限定して、それへのこだわりや素材を通 してはじめて得られる美術概念にもとずいて作品を作るという行為 を行う人々が依然存在することは事実であり、「工芸=使うもの」という考え方や逆にこ の考え方に対する反発やそこからの解放が出発点になっている表現だけにとどまらないない思考の出発点を今の工芸家と呼ばれる人たちや若い学生たちは自分の自然な感覚として感じ始めている。ひとつの素材について興味をもって考えていく過程においてその素材にまつわる歴史や 思想、その長所、短所、行われてきた様々な表現、たずさわってきた人々やそれを取り巻く社会の受け止め方、価値観など様々な側面 が見えてくる。そうしたことを踏まえたうえで作品表現を考えるときにその素材の世界の形骸化した部分(疑いなくくり返される一連 の完成された技術的行程や徒弟制度的に位置ずけられる個人の立場等)や純粋に個人が要求すること以外に必要に迫られることがら(素材を扱う上で必要な技術等)を自らの問題 として見つめ直し、その思考の経過、結果を作品に反映させることが製作の動機であったり表現そのものであったりする。自分の感性にあった素材を自然に選択し徒弟制度的な閉塞的思考とは無関係の世界でその表現を試みようとするこれらの人々の頭の中にあるのは伝統的な技術を段階を追って学び作品を作るということではもはやなく、素材をもってしていったい何が表現できるのかという思考であり、作品はその思考の結果 として位置ずけら れようとしているのではないだろうか。

01/08/07 加筆修正

 

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